聞き手:中村 義裕(演劇評論家)
第七回「榛名由梨さん、縦横無尽に語る」
榛名 由梨さん(女優)
このコーナーは、平さんとゆかりの深かった方々に、さまざまな想い出をお話いただくコーナーです。
インタビューは、超大型の台風が東京へ接近を進めていた10月22日の夕刻。赤坂でライブ・コンサートのステージを終えたばかりの榛名さんのインタビューは、対談場所のレストランがいきなり「停電」というハプニングで幕を開けた。テーブルに置かれたキャンドルの灯りだけで一時間ほどお話を伺ったが、お互いの顔がはっきり見えない明るさを物ともせぬ榛名さんのパワフルさ。ご自分のこと、平さんとの想い出…。場所を替え、普段の光の中に戻ったが、榛名さんはステージの疲れも見せず、楽しいお話が続いた。
-今日はライブの後でお疲れのところをすみません。
榛名:いいえ。今日は宝塚OG3人でのステージで、宝塚時代の『バレンシアの熱い花』の主題歌「瞳の中の宝石」、『風と共に去りぬ』の「君はマグノリアの花のごとく」などを歌いました。今、宝塚でも『エリザベート』が大ヒットしているので、「闇が広がる」を歌いました。他には『ベルサイユのばら』の「愛あればこそ」、「ひとかけらの勇気」という、熊本地震の復興イベントで歌った曲、そしてラストは『源氏物語』で宇崎竜童先生が作ってくださった「紫のゆかりの恋」など。
-素敵なナンバーばかりですね。平さんも、宝塚歌劇には憧れをお持ちだったんでしょうね。
榛名:そうおっしゃる方は多いですね。いろいろな方が「あの大階段を降りてみたい」って。26段のあの大階段を降りるのは大変で、初舞台の時に、降り方を教わるんです。視線は正面のままで、下を見ないでスピーディーに降りられるように。スターさんになれば降りる間に階段の途中で止まる時間がありますが、若手のうちは素早くさっさと降りなくてはなりませんから。下から10段目のところにちょうどピン・スポットが当たるんです。トップスターは、そこでライトを浴びながら歌うわけで、皆さん、そこへたどり着くように努力するんですよ。
今年で105期生、卒業生が4500人以上いますが、その中でトップになれる人はどれだけかと考えると、大変でしたね。私の一年上の期は、トップが出ていないんです。私の時は三人いましたから、年によっても違うんですが、それでも一割に満たないんですからね。
-トップを務めることの力量に加えて、プライドも保たなくてはなりませんね。
榛名:「あぁ、ああいう先輩のような素晴らしい役者になりたい」という、トップスターの偉大さや重みを持っておられる方が大勢いらっしゃいましたし、大きな足跡を遺してくださいました。その背中を見て勉強させていただきましたが、今は、トップになってから引退までのサイクルが短くなり過ぎた、というお声をよく聞きますね。私も、1975年から82年まで9年間、トップを務めさせていただきました。その間に組が「花組」から「月組」に替わったりしましたけれど。
-身体に叩き込まれた「芸」が違うのでしょうか。
榛名:どうでしょうか。古き良き時代をご存じの歌舞伎の評論家の先生と対談させていただいた時に、「榛名由梨は歌舞伎の芸を継承している」というお言葉をいただいたことがあります。それは、先々代の尾上松緑先生や長谷川一夫先生に演技指導や演出をしていただいたことが大きいですね。
昔は、宝塚にも「歌舞伎研究会」があって、春日野八千代、天津乙女、神代錦などの大先輩が、歌舞伎の十一代目の市川團十郎、八代目松本幸四郎、二代目尾上松緑各先生の三人のご兄弟にご指導をいただいて、『車引』(くるまびき)や『暫』(しばらく)を宝塚の大劇場で上演したことがあります。私たちにはいい勉強の機会でしたが、そういう経験をしているのといないのでは大きな違いでしょうね。素晴らしい歌舞伎役者の皆さんから、直接教えを乞うことができたのは幸せでした。『鷗よ、波濤を越えて』の時は、尾上松緑先生に直接教えていただきましたが、本当にわかりやすくて。何か物を拾う仕草でも、一つ一つを具体的に、役の気持ちや動きで教えてくださいましたからね。
長谷川一夫先生が、「『歌舞伎』の「歌」「舞」「技(演技)」があるのは、宝塚だけだよ。歌舞伎は歌わないからね」とおっしゃってくださいました。その精神は継承されていると思います。
-1970年代の東京宝塚劇場は、年間の半分ほどしか宝塚歌劇の公演がありませんでした。そこへ1974年に『ベルサイユのばら』の大ブームが起き、その転換期の中心に立っておられたわけですが。
榛名:ファンの年齢層も下がって、小学生の方まで観に来ていただいたり、ファンが増えたりはしましたが、渦中にいる私は、特に何か、ということはなかったですね。とにかく、今まで通りに、自分がいただいた役を誠心誠意努めること、そのための体調管理、その上で皆さんに喜んでいただけるように、ということだけです。
ただ、初日は無我夢中で終わって、一週間を過ぎた辺りから、周りの空気が徐々に変わるのを感じました。楽屋口で待っている方々も増えて、夏休みが終わっても、小学生の姿も見えました。でも、そこで有頂天になってはいけない、と自分に言い聞かせていましたね。人気は出ても、「現実」を見極めて、浮ついては行けない、と苦言を呈してくださる先生もいらしたので、幸せでした。
実感したのは、ファンレターの数が一気に増えて、段ボールに山のように届いて、お返事を書き終わるのに四年半かかりました。
-全部にお返事を書かれたのですか?
榛名:えぇ、ほとんどは。でも、最後の頃には住所が変わっておられる方もいらっしゃいました。母が、「この郵便代、宝塚に請求できないの?」ってこぼすぐらい(笑)。返信用の切手を入れて来る方は少なかったですね、返事が来るとは思っていなかったでしょうし。でも、丹念に目を通すことで、教えていただくこともありました。
-凄いお話ですね。そこから榛名さんの律儀で真面目な性格が窺えますね。
榛名:本当に恵まれていましたね。外国の演出家、サミー・ベイスの演出も1968年に『ウエストサイド物語』で受けたことがあります。23歳の時、舞台に立って6年目での事です。サミーの演出は、通し稽古が終わり、「ダメ出し」が一時間、それで終わりかな、と思うと、もう一回、「頭カラ」って(笑)。それで鍛えられ、芝居の何たるかも教えてもらいました。リアリティの最たるものを要求され、人種差別の中で生きる悪ガキの少年たち、その中の純愛という悲劇の初演をさせていただけたのはありがたいことでした。この経験があるから今がある、と言えるぐらいのことでしたね。若い時の経験は本当に貴重ですね。
自分の舞台人としての人生がこれからどこまで続くのかわかりませんが、宝塚でピークを迎え、1988年に退団後は脇役として勉強をさせていただいていました。
-その後、2006年の平さんとの『オセロー』での出会いがあるわけですね。
榛名:この舞台では娼婦のビアンカという役で、7ヶ月一緒に旅をさせていただきました。
-平さんとの共演はいかがでしたか?
榛名:私は、一度、平幹二朗さんと同じ板の上に立って、役者として勉強したいという気持ちがありました。それで以前から共演を希望していて、10年ぐらいかけて実現したのが『オセロー』でした。プロデューサーの秋山さんが、「『オセロー』は女性の役が少ないので、あまりいい役はないですけれど…」と心配してくださいましたが、「役は何でもいいから」って。それで、ビアンカの役をいただいたんです。「何でもいいから勉強したい」という想いと、「名優と一緒の舞台で空気を吸えて幸せ」という想いでしたね。
あの時は、みんなでフラメンコの稽古にも行きました。日本のフラメンコの第一人者・小島章司先生が、とても優しく教えてくださって、あんな経験は簡単にはできませんね。
-あの舞台は普通とは違う『オセロー』でしたね。
榛名:『オセロー』では平さんは演出もしておられましたから、「榛名は宝塚で生きて来た人だから、どこかに見せ場を作ろう」という演出家としてのサービス精神だったんでしょうね。男装で出て来て、それを取ると女性、という見せ方に、平さんの愛情を感じましたね。
平さんはそれまでにもずいぶん多くの女優さんと共演されて来ましたし、その中で、どうやってその女優の魅力を引き出すか、という演出家の繊細さをお持ちでしたね。主役のオセローとしてのご自分の芝居がありながら、演出家としてそういうところまで目配りしてくださるのは嬉しかったですし、だからこそやりがいがありました。全部で120ステージ以上、毎日1ステージでしたから、長い旅でしたね。
-旅での想い出などは?
榛名:平さんは召し上がることが大好きで。四国・松山での公演の時に、食事会でもないのにわざわざ誘ってくださって、渕野さんと平岳大君と、四人でイタリアンのお店へ行って、平さんの大好きなイタリアンでワインを頂いたこともあります。毎日1ステージという行程でしたから、夕方に終演になることも多かったですから、そういう機会を設けていただくこともできたんですね。
-『オセロー』は、ボリュームから考えても、旅公演で一日に2ステージというのは難しいですね。ただ、そうした舞台以外の時間を持てたことが、舞台の濃密さを増すのにも貢献したのではないでしょうか。
榛名:私のために、わざわざ新しい演出を考えてくださったのに、評判が悪かったらどうしようかと思っていましたが、幸いにも好い評判を頂いて良かったです。
-榛名さんからは平さんはどんな方に見えましたか?
榛名:私も興味津々で、「どんな人なんだろう?」ってしょっちゅう傍にいましたよ。まずは、何よりも繊細でナイーブでいらっしゃいました。いろいろなところに、自然に気付いてしまうんですね。
それでも、時々いたずらをして、関西で言う「いけず」をするんですけれど、それが可愛いの。稽古場でも、観察力が鋭いから、演出家として相手をいじるとどういう反応が出て来るか、を観たいんですよ。そこには「愛情」があるのね。
そういう点で子供のような純粋さも持っていたから、新鮮な表現ができたんでしょうね。
-最後の『王女メディア』もそう感じました。全部で96ステージ、千秋楽が水戸で終わって、帰りの電車の中で、「ようやく今日、初日が出た気がする」っておっしゃっていました。そういう感覚なのでしょうか。
榛名:舞台に立っていると、「千秋楽が初日だったらいいなぁ。もう一回できればなぁ」とはよく思いましたし、そういう事はあります。舞台は相手があって、そのイキが日々違いますからね。特にダンスなんかは「あぁ、今日は上手く行ったなぁ」と思うのは、50回やって2回か3回です。その分、ソロで踊って巧く行った時の喜びよりも、デュエットで踊って巧く行った時の嬉しさはその何倍も感じましたね。
-芝居は何人もが集まって創るものですからね。
榛名:歌舞伎の名優が、「何回もやって当たり役だと言われても、巧く行ったと思ったのは一回だ」とおっしゃってましたが、何回もやっていらしてもそうなんだ、と思いました。一回でも巧く行った、と思えるだけでもマシか、と。いい作品が作れた時の喜びは大変なものです。
-平さんとの共演を熱望された理由はどこにあったのでしょうか?
榛名:役者として憧れていたからですね。昔のトレンディ・ドラマや、俳優座の「三羽ガラス」と言われていた時代から拝見していました。役者としての滑舌の良さ、芝居の深み、目力の強さ、そういう物を観て、男性の色気を感じる役者さんでしたからね。私は男役でしたから「男の色気」を要求されることが多くて、それが見事に表現できる役者さんでしたしね。男優としての研究対象でもありましたけれど、舞台やテレビから感じる平さんの魅力は大きかったですね。
-女優として心がけていることは?
榛名:劇場の大きさがどうであれ、私は「見切れる」ことが嫌いなんです。せっかく同じお金を出して足を運んでくださったのに、申し込みが遅かったから端っこで良く見えない、ではお客様に失礼ですよね。今日も助手をやってくれた子に、客席のあちこちに座ってもらって「全部、見えてますか?」と何度もテストを繰り返しました。大学で教えていた時に、朝から2時間、講義を聴いていれば学生さんも眠くなりますよね。どうしたら寝ないようにさせられるか、と先生に相談したら、「全員の顔を見て、目を合わせるんですよ」と教えてくださって。それ以来、どこへ出てもこの感覚は変わりませんね。
-そういう榛名さんの姿を、平さんも『オセロー』の旅でご覧になっていたんでしょうね。お互いに、「芸」の盗みっこがあったのかもしれません。
榛名;私の役は最後の引っ込みが派手なんですよ。平さんはこの公演の時に、演出もやってらっしゃいましたが、ご自分がやりたかったようですよ。自前の高級なストールをいただきましたよ。「プレゼント」って。今でも大切に持っています。
-平さんは、その榛名さんの姿を羨望の眼差しでご覧になっていたのでしょうね。
榛名:娼婦でも純粋な心を持っているビアンカという女性を演じてみたかったのかもしれませんね。本当に、たくさんのことを学ばせていただいたと思います。素晴らしい想い出を創っていただきました。
-長時間、ありがとうございました。
-インタビューが終わる頃、台風がどこにいたのか、嵐のような雨はほとんどやんでいた。この日は折しも平さんが亡くなって丁度一年。あの「停電」は、榛名さんへの平さんのお茶目な「いけず」だったのかもしれない…。
「榛名さんの天然の明るさに思わず笑いが…」
「仕事を忘れかけて盛り上がる二人」
「榛名さんの話題は芝居のように縦横無尽」
「榛名さんの魅力は『人間力』でもあるのだ」
榛名 由梨(はるな・ゆり)
1963年、宝塚歌劇団に入団。68年の『ウエストサイド物語』で頭角を現わし、73年に月組のトップスターに就任。74年には『ベルサイユのばら』のオスカルを演じ、日本中に熱狂的な『ベルばらブーム』を巻き起こす。
88年に宝塚歌劇団を退団後は、女優を中心に幅広い活動を行っている。
『スクルージ』、新宿コマ劇場での宝塚OGによる『狸御殿』シリーズ、『マウストラップ』、『オセロー』、『瞼の母ラプソディ』など、洋の東西を問わない幅広い役柄を演じ、2013年には芸能生活50周年を記念し『無法松の一生』を原作とした『永遠物語』で松五郎を演じている。