幹の会と株式会社リリックによるプロデュース公演の輝跡

聞き手:中村 義裕(演劇評論家)

【第三回】

「芸歴66年、しなやかなる狂気」

坂本 長利さん(役者)

 
このコーナーは、平さんとゆかりの深かった方々に、さまざまな想い出をお話いただくコーナーです。

 
「嬉しそうに紫煙をくゆらす坂本さん」
 
 

−坂本さんは、何と今年88歳、芸歴66年の大ベテランでいらっしゃいますね。そもそも、芝居との最初の関わりはどのようなものだったのでしょうか。
 
坂本:僕は出雲の出身で、昭和4年生まれなんです。大きな劇場があったわけでもなく、祭の時の里神楽や、時折廻って来る「サーカス」などが、役者としての原点だったのかもしれませんね。ただ、昭和18年頃でしたか、親父が42歳で召集されましてね。40代で戦争へとられる、というのは、もう戦争も末期に近い状態だったんでしょうね。父は、当時の支那へ応召され、帰って来たのは終戦後一年ぐらいしてからでした。家には、祖母・母・妹と三人の女だけが残りましたので、当時の鉄道省(現・JR)の鉄道の通信区で働きました。その間は、さすがに芝居のことは忘れていましたね。
終戦から二年ぐらいして、出雲から出て来たんですが、親戚も友達もいなくて。とにかく食べるのに精いっぱいでした。昭和26年に、出雲の知り合いの伝手で、当時「ぶどうの会」を木下順二さんや岡倉士朗さんとやっていて、目黒の柿の木坂に住んでいた山本さんを訪ねました。ご紹介いただいた方に、「映画でも演劇でも基礎が大事だ。その基礎を山本安英がやっているから」というのがその理由でした。その時は、ちょうどNHKへ行く前で、5分だけ、という約束で話したら、「訛りはあるけど、あなたは直せば治るのね」って言われて。 
出雲のような田舎でも、歌舞伎役者のブロマイドや尺八、三味線があって、祖母がいろいろ説明してくれたのは大きかったですね。ですから、東京へ出て来て、真っ先に出かけたのが歌舞伎座でした。でも焼けた跡で、囲われた跡を見るだけでした。
実は、山本さんに会うまでは、「山本安英」って文字からして男性だと思っていたんですよ(笑)。出雲には新劇の情報なんかないから、最初に会った時におかっぱの女性だったので、びっくりしましたね。そこで、木下順二先生の『山脈』の公演があるので、それを観に行って、願書を出しました。
 東京へ出て来たばかりの頃に観た芝居で印象に残っているのは、有楽町にあった「ピカデリー劇場」で上演したイプセンの『ヘッダ・ガブラー』でした。田村秋子、千田是也、三島雅夫、信欣三、南美江さんも出てたなぁ。これは、「実験劇場」という劇団の公演で、昭和25年でした。いやぁ、面白かった。その年に、「ぶどうの会」の第一回公演で山本さんが『夕鶴』を三越劇場で上演したんです。
「ぶどうの会」は、ちょっと面白いスタートで、昭和23年に木下順二さんと山本安英さんが中心になって結成して、その時に木下さんが書いた『彦市ばなし』を上演しました。『夕鶴』も、三越より前に地方でやっていますが、勉強会とか試演会という名前でした。あの頃の新劇は、文学座でも「試演会」という言い方をよくしていましたね。
当時、僕の住まいは本郷でしたが、とにかく食えませんでした。NHKが田村町(現在の港区・西新橋)にあって、仕事が終わって帰るスタジオの扉のところに謝金係の人がいて、その場で現金で出演料をくれるんですよ。あれには助かりました。 
木下さんの方針では、できるだけアルバイトはしないでほしい、ということでしたから、生活が大変でしたね。
 木下さんの『赤い陣羽織』を、テレビの初期に山本さん、香川京子さん、中村勘三郎(十七世)先生で放送したことがありました。その時に、勘三郎先生がプロンプターがほしいとのことで、初めてテレビのプロンプターをやりましてね。横で台詞を付けていたら、先生が横へ椅子を持って来られて、「ここへ座ってやってください」っておっしゃるんで、「はい」って座ってプロンプターをやったんです。そうしたら、後で木下さんと山本さんに物凄く怒られました。「あの人がどういう人だかわかってるの? 『暑いっ!』って言えば仰ぐ係がいて、『煙草』、って言えば火をつける係がいる方なのよ」って。それからしばらくして、歌舞伎座へ勘三郎先生が出ている時に楽屋をお訪ねして、柝が入ったので立とうとしたら、「俺が出るのはまだ先だよ」っておっしゃってね(笑)。愛嬌のある温かな先生で、そんな勉強もさせてもらいました。
 
−新劇華やかなりし頃の素敵なエピソードですね。先代の勘三郎の顔が浮かぶようです(笑)
ところで、「ぶどうの会」を役者人生のスタートとして、さまざまな歩みを重ねてこられた中で、坂本さんと言えば『土佐源氏』ですね。これは、民俗学の大家、宮本常一さんの名著『忘れられた日本人』の中のエピソードですが、どういうきっかけで出会われたのですか?
 
坂本:まだ「ぶどうの会」の研究生だった27歳の頃、本郷のYMCAを稽古場に借りていて、そこで「民話の会」をやっていましてね。そこが出していた雑誌に載っていたのを読んだのが初めての出会いでした。それから、宮本先生に『土佐源氏』のことを改めて伺って、一人芝居にして上演したのが38歳の時ですから、もう50年になります。モデルになった男の人は80歳で死んだと言いますが、今、88歳になって、ようやく落ち着いてやれるようになった気がします。
 
−さんざん放蕩の限りを尽くして、盲目になった男性が来し方を語る、という内容で、一人芝居は逃げ場がなくて大変ですね。
 
坂本:怖いですよ。1100回以上やっているのに、何回やっても慣れませんね。今でも、一週間ぐらい前からドキドキして落ち着きません。舞台へ出てしまえばもう覚悟は決まるんだけれど、それでも怖いですね。だから、僕はやるたびに台詞を全部書いて、覚え直すんです。
 
−平さんも「台詞を書いて覚える」と伺いました。台詞は、書いて目で覚える方と、録音した台詞を聞いて耳で覚える方がいますが、お二人とも一緒ですね。
 
坂本:台詞覚えは役者が一番苦しむところで、それぞれにやり方ありますからね。
『土佐源氏』は劇作家が書いたものではなくて、元はお爺さんが語った言葉を民俗学の先生が聞き取ってまとめたものです。僕が一人芝居にしたようなもので、最初から「芝居」として書かれてはいませんからね。何でこんなものをやり始めちゃったんだろうと思います(笑)。宮本先生にも、「君は凄いことを始めたね」って言われましたよ。
 これだけやっていても、台詞を忘れたことがありました。その時は、じーっと頭の中で想い出して。でも、あの役だと黙っていてもそう不自然ではないので助かります。一人芝居は、誰も助けてくれないし、相手がいないから。どこまでやれるかわからないけれど、最近は、元気で100歳を迎えられたら、這ってでも『土佐源氏』をやりたい、と思うようになりましたね。実際にそんなことができるかどうかはわかりませんが。
 もうそんなに遠い国ではやれませんが、最初に外国でやったのがポーランドでした。新聞記者に、「向こうでガラガラだったらどうする?」って脅かされて、「言葉は通じないし、嫌だなぁ」と思って憂鬱な想いで行ったんですよ。向こうへ着いたら、劇場の支配人がオランダ語しか話さない女性で、「5時半からの会は全部売れたので、9時半から追加公演をしてほしい」って通訳に言われてね。まだやってもいないのに大丈夫かなぁ、と思ったけれど、仕方がないと思ってやったら、拍手が鳴りやまなくて、カーテンコールに5回出ちゃった。そんな事は初めての経験で、驚�きましたね。スタッフがいうには、ポーランドの観客なのに、私の日本語がわかっているみたいだった、って。
 
−言葉の壁を超えて、「役の人間像」が伝わったんでしょうね。平さんが『王女メディア』をギリシアで上演した時にも同じような事があったと伺いました。『土佐源氏』の盲人が坂本さんの中に棲んでいるんでしょうね。
 
坂本:ポーランドのほかに、スウェーデン、西ドイツ、オランダ、ぺルー、ブラジル、デンマーク、イギリス、韓国、バリ島、10か国でやりましたね。イギリスのエジンバラでは平さんが出ている『NINAGAWA・マクベス』の公演とぶつかったことがありました(笑)。
 
−平さんとの初共演は1998年の『十二夜』になるわけですが。
 
 坂本:不思議なことに、それまで平さんとはほとんど縁がなかったんです。同じ俳優座の仲代達矢、加藤剛のお二人とは縁があって、仲代さんの奥さんの亡くなった演出家の隆巴(りゅう・ともえ)さんが、「坂本さんの『土佐源氏』をウチでやらせて」と言って来たこともあります。彼女とは昔、『女の平和』で一緒したこともありました。その時、「何が食べたい?」って稽古の時から毎日弁当を作って来てくれたんですよ。訳を聞いたら、「あの人は名ピッチャーだから、どんな球でも受けられるような名キャッチャーになれ」って仲代さんに言われたので、坂本さんとお近づきになりたかったの、と言われて。
平さんだけは縁がなかったんですよ。だから、最初の『十二夜』の時は緊張しましたね。最初だったせいもあって話もしなかったし、平さんが僕のことをどう観ているかもわからなかったですし。
平さんの舞台には6本出ましたが、本当に四つに組んで「芝居をした」と感じたのは、2002年の『リア王』だけかもしれませんね。僕のグロスター伯爵の役が、他の芝居の役よりも、平さんとからんで芝居をする場面が多かったのも大きな理由でしょう。
 
−平さんの旅公演というのはどんな空気でしたか。
 
坂本:演出家を兼ねている場合もあったせいか、耐えず人の芝居を観ていましたね。
『リア王』で、僕のグロスター伯爵は盲目になるんです。それを袖で観ていて、「今の場面を写真に撮っておけ」と指示をしてね。それは、自分がのちに『オイディプス王』を演じる時に、盲目の芝居というのがどういうものかを参考にしたかったんでしょう。そういうところは「役者だな」と思うし、そういう人とやった方が面白いですよ。あの芝居は苦労したけれど、面白かったなぁ。
 
―『十二夜』は「幹の会+リリック」としても初めての公演でしたから、平さんも新たな気持ちだったでしょうね。最初は近寄りがたいような感覚でしょうか。
 
坂本:『リア王』辺りではもうそんな感覚はなくなっていました。徐々にお互いがわかり合えて、距離感が縮んで行ったんでしょうね。毎日のように一緒に呑んでいたんじゃないかな。僕はあんまり呑まないのでお茶でお付き合いをするんですけれど、平さんはよくワインを呑んでましたね。そういう時に、若い役者にダメを出すんですよ。後は、次の公演先までの移動の電車の中とかね。「あそこはこうしたらいいんじゃないかな」みたいな感じで、小さな声でしゃべっていましたね。
今思うと、『十二夜』は、あんまり得意じゃない分野の芝居のように感じたな。彼は、やはり悲劇が好きなんでしょうね。『十二夜』も堂々とコメディをやっているように見えても、内心はひやひやしてたんじゃないかな。
『リア王』なんかはまさに堂々とした芝居でしたね。船を出す場面を造って、あれもたいしたものだと思ったけれど、それで舞台に荒野が現われるんですよ、感覚として。あれには驚いたな。自由に好きな芝居をする、無邪気なところが好きだったなぁ。澄ましている顔よりも、よほど魅力があってね。テレビで見慣れた顔じゃない顔で芝居をしているのが良くてね。
『オセロー』の時は、僕は台詞が覚えられなくて苦労してね。台詞が入らないと、芝居が活きて来ないんです。それで苦労している僕に、ある日、平さんが、稽古場へカバンを持って来てくれてね。「これを使ってもいいよ…」って。僕が、台詞が入らなくて苦しんでいるのを見かねたんでしょうね、カバンの中に台詞を書いて貼ってもいいよ、っていう意味なんですよ(笑)。
でも、何とか苦労して覚えて、幕が開いたら、僕のそばへ寄って来て「別人♪」って(笑)囁いたことがあったっけ。そういうことは印象に残りますね。
 稽古の初日にはすべての台詞が入っていないといけない、という演出家もいるけれど、僕は少し違うんじゃないか、と思うんです。一通りは入れておいて、芝居を創りながら、台本の台詞を身体に入れていかないと、芝居が活きないような気がする。もちろん、覚えていればそれに越したことはないけれど。
 
−平さんの「演出家」としての眼はどうでしたか?
 
坂本:特に奇抜なことをする、というのではありませんでしたね。演出も、「ここをこのタイミングでつかまれるとやりにくいんですよね」とか、役者の感覚でしたね。今の片岡仁左衛門さんが片岡孝夫時代に『ハムレット』をやった時に、墓掘りで谷啓さんとご一緒しましたが、その時にも同じように感じた覚えがあります。あの時は別に演出家がいましたけれど、平さんの演出は「間」とか「イキ」を大切にする役者の感覚、でしたね。
 
―平さんの「役者としての姿勢」が現われていたのかもしれませんね。
 
坂本:うん。そう言えば、僕の名前は「長利−ながとし」なんですが、呼びやすいからみんなが「ちょうりさん」って呼ぶんですよ。良い悪いは別にして、平さんは絶対に僕のことを「ちょうりさん」とは言わずに「坂本さん」って呼んでましたね。年下の人でも、「〜さん」。人間の品性かな、紳士的だったなぁ。旅で電車から降りて、トイレへ行くのに、「坂本さん、ちょっと待ってね」でしたね(笑)。
 
−多くの方と共演されていますが、長い芸歴の中で、どんな事を感じられますか。
 
坂本:「芸」っていうのは、持って生まれた物があると思います。それと、昔は役者は「河原乞食」と言われたでしょ。あえて、今、そんなことは言いたくありませんが、僕の中に何か一本の棒が通っているのだとすれば、そういうところなんでしょうね。だから、「演劇」という言葉よりも「芝居」が好きだし、「俳優」じゃなくて「役者」という言葉が好きですね。「俳優」の「俳」は「人に非ず」と書くでしょ。役者ってそういうもので、結局のところ、人間は死ぬ時は一人ですよ。それまでに、何ができるか、っていうことじゃないですか。
 
−今は、そうした覚悟を持って舞台に臨む「役者」が少なくなりました。「ここにしかいる場所がないんだ」という感覚ではなくなったように思います。
 
坂本:時代と共に変化があればいいけれども、変化じゃなくて、消滅とか衰亡へ向かっているような感じですね。僕も新劇を振り出しに映画やテレビ、商業演劇といろいろな仕事をして来ました。やはり、分野によって同じ芝居でも全然感覚が違うもので、初めて商業演劇へ出た時にはお客さんを喜ばせるために、相当な無茶をさせられて、ずいぶん戸惑いました。一口に「芝居」って言うけれど、いろいろな種類の芝居がありますよ。
 ただ、最初に飛び込んだ「ぶどうの会」が、日本語の美しさや「ことば」を大切にし、そこにこだわりを持っているところだったのは幸せでしたね。
 
−そういう役者だからこそ、平さんも多くの作品で共演されたんですね。坂本さんのお話は汲めども尽きず、ですが、今日は長時間にわたってありがとうございました。
 



「芝居の話は、坂本さんの人生を聴くようだ」

「芝居の話が止まらない二人…」

 

坂本 長利(さかもと・ながとし)
 
1929(昭和4)年、島根県出雲市生まれ。1951年、山本安英、岡倉士朗 らが主宰する「ぶどうの会」に入団。
1953年、木下順二作「風浪」で初舞台を踏み、さらに木下作「三年寝太郎」、宮本研作「明治の柩」などに出演。
1964年、「ぶどうの会」解散後の翌年、竹内敏晴、和泉二郎 らと演劇集団「変身」を結成。東京・代々木の「代々木小劇場」を 本拠地に小劇場運動の先駆けとなるとともに、宮本研作「とべ、ここがサド島だ」「ザ・パイロット」、秋浜悟史作「冬眠まんざい」などの舞台に立った。
1971年、「変身」解散後は映画・テレビなどにも多数出演。近年では、2013年、坪内拓史監督・映画「ハーメルン」(共演は西島秀俊、倍賞千恵子ほか)に主演。2017年、テレビ朝日系列帯ドラマ『やすらぎの郷』出演。 
1967年の初演以来、独演劇「土佐源氏」(宮本常一聞き書きによる)を、出前芝居と称して日本各地を はじめ、ポーランド、スウェーデン、ドイツ、オランダ、ブラジル、ペルー、イギリス、韓国にて海外公演も多数行う。上演50周年・米寿記念となる2017年3月には、高知県梼原(ゆすはら)町公演で、上演回数は1,182回。今後も、鳥取・山口・愛知・東京・埼玉・秋田での公演が決定している。
1985年、紀伊国屋演劇賞特別賞、2000年、旅の文化賞を受賞。2017年、ゆすはら未来大使就任。

 


一人芝居『土佐源氏』。
蝋燭の炎がこの舞台には似合う。
 

役者・坂本長利なのか、
『土佐源氏』の主人公なのか。
 

役者には、役の魂が宿る。
素顔 温かな眼差しに、瞬時に「狂気」が宿る。
役者・坂本長利の本領発揮だ。

 

 次回は女優の剣幸さん。舞台で演じる役柄の幅広さで多彩な『色』を見せるお話をお楽しみに!