幹の会と株式会社リリックによるプロデュース公演の輝跡

平さんを偲ぶ
『王女メディア』スタッフの会


暮れも押し詰まった一日、都内で『王女メディア』に関わりの深いスタッフの方々に
お集りいただき、いろいろな「想い出」を語っていただきました。
ふだんは滅多に表に顔を見せない舞台創りの裏方のプロたちが平幹二朗という役者をどう感じ、どう接していたか、その一部をお伝えいたします。
 

2016年12月23日(金)

左側奥から井川学、山下厚、吉田ひとみ、秋山佐和子、右側奥から勝柴次朗、伊藤雅子、高橋巌、城戸智行、麻生かほり

★参加者

伊藤 雅子    美術プランナー
勝柴 次朗    照明プランナー
高橋  巖    音響プランナー
井川  学    舞台監督
山下  厚    照明操作チーフ
城戸 智行    音響操作チーフ
吉田ひとみ    舞台監督助手  
麻生かほり    制作  
秋山佐和子    プロデューサー 

【はじめに】
 
秋山  今日は、先日、82歳で急逝された平幹二朗さんと多くの現場で仕事をされたスタッフの仲間の皆さんと、平さんを偲んであれこれとお話をしたいと思います。
お集りいただいたのは、「幹の会」の作品創りに一番近かったプランナーの皆さんと、そのプランを現場で遂行していく各部署のチーフの皆さんです。
美術・照明・音響など、それぞれの分野で、稽古前の台本の段階からプランを出して形にしていくのがプランナーさんの役割です。
公演が始まると、各部署の「チーフ」の方々を中心に、初日の劇場で創り上げたものを各地の劇場に合わせてオペレートすることになります。
 
今日は皆さんが関わってこられた「こんな平さん」、「あんな平さん」の想い出を語って頂ければと思います。
平さんが亡くなって、ちょうど2ヶ月が経ちました。
去年の今日は出雲で公演でしたね。その時は、一年後に平さんがいない席でこんな集まりをするなんて思いもしませんでしたね。

今日、この席に飾ってある写真の平さんは「幹の会」の発足の時、60歳ぐらいの時のものです。

平さんはこの写真が大のお気に入りで、長い間使っていました。
でもある日、「実物と違いすぎる!(笑)」ということになり、新しく撮影したんですけれど、「普通のおじさんみたいだね。」って気に入らなくて、200枚のプリントもボツ、また暫くこの写真のお世話になりました(笑)。
写真のところに「みかん」が供えてありますね。
これは「幹の会」の会員さんから、先日3箱お送りいただいたものです。
毎年平さんに送ってくださっていたんですって。冬の稽古場に平さんが運んできてくれたみかんは、その会員さんが送ってくださったみかんだったんですね。
改めてご馳走さまでした。
 
今日は、これからオープンする新しいホームページのために、皆さんに「スタッフ座談会」としてお話を伺うんですけれど、このホームページは、平さんが亡くなってから「なんとか平さんの功績を残したい」という想いで計画を始めました。
平さんとは、ずっと以前から「ホームページを作ろうね。」と約束していたんですが、作品創りで忙しくて先送りになっていました。再演の『王女メディア』でやっと立ち上げたんです。
 
新しいホームページは、いろいろな話題や皆さんの声などを積み重ねて、平さんと同じように、いつまでも熱いホームページにしたいと思っています。
「幹の会」の会員の皆さんや平さんの芝居を愛してくださる観客の皆さんの想いを寄せていただくページも設けています。
天国の平さんにも見守っていただきたいですね。

【平さんと「幹の会」の公演】

 
勝柴 最初から照明プランナーとしてやって来て、今更なんだけれど、そもそも「幹の会」ってどういう形の会なの?
 
秋山 最初は、後援会の名称だったんですよ。それをそのまま製作母体の名前にしたんです。
「幹の会」の発足パーティを開いた時に『申し訳ないですが、僕は皆さんと運動会とかできませんから。』って(笑)。
会員の方々も平さんと同年代が多かったんですけど、平さん特有のブラックジョークだったんですね。その後はパーティもやめて、「幹の会」は芝居の製作と会員さんへの公演のご案内に終始しました。平さんは自分でお手紙を書いて、ご案内を出して、席割りをして、チケット発送をして、チケット代の精算もしていたんですよ。
ご本人は何もおっしゃいませんでしたが、ご自身でそうすることで、想いを届けたかったんでしょうね。ファンの方たちを大切にしていたから。
でも、あれだけの役者さんが、事務作業まで、全てのことにご自身が携わってすごいですよね。
 
井川 席割りも自分でしていたの!? 舞台監督だけだって大変なのに(笑)。
 
麻生 そうなんですよ。
そういうことも自分でやって、台詞も覚えて、本当に几帳面な方でしたね。
その代わりお掃除だけは苦手だったけど(笑)。
今回の旅でも、「DMの宛名ラベルを50セット作ってくれない?」って言われたんですよ。
それはどう考えても…。聞き返したかったんですけれど、『てにをは』を間違えたら大変だから聞き返しませんでした。
「50セットもですか?」なんて言ってしまったら大変なことになる(笑)。
 
伊藤 50公演分ということでしょう?!
 
麻生 そうです(笑)。
 
秋山 2010年の『冬のライオン』の公演の時、麻実れいさんが付人を付けなかったから、次の2012年の『王女メディア』で平さんは「僕も付人は付けない。」って言って、付けなかったんですよ。
でも、一回で挫折。去年(2016年)の『王女メディア』では稽古場の最後ギリギリのところで、「やっぱり欲しい。でも、僕の付人は20代30代の若い女性では務まらないよ。僕の文句に耐えられないよ。」って(笑)。
 
高橋 面白い方でしたね(笑)。
 
吉田 条件にかなった付人さんがよく見つかったよね。
『王女メディア』に出た廣田さんの紹介でしょ。
私たちは クマちゃん(熊井かず子)って呼んでいたけれど、熱心だし、細かなところに気が利くいい人でよかったね。
 
井川 ところで、巖さんはいつから平さんの公演で音響プランをやってるの?
 
高橋 2004年の『オイディプス王』からだね。全部で6本。勝ちゃんは照明プラン、最初からだよね。
 
勝柴 そう。
でも途中、『十二夜』だけ出来なかったんだよね。
あれは1998年と99年だったかな。
 
麻生 演出は、最初は栗山民也さんで、『オセロー』『メジャー・フォー・メジャー』『リア王』。
1997年から鵜山仁さんに変わって、『親鸞 大いなるみ手に抱かれて』、『十二夜』、2000年の『シラノ・ド・ベルジュラック』。
 
城戸 その後が、いよいよ平さんの演出になるんですよね。
2001年の『冬物語』、2002年から翌年にかけての『リア王』、2006年の『オセロー』ですね。
 
山下  髙瀬久男さんが2010年の『冬のライオン』、12年の『王女メディア』ですね。
 
麻生 そして髙瀬さんが亡くなって、『王女メディア』の再演は髙瀬さんの志を引き継いで、田尾下哲さんでした。
 
秋山 平さん、『冬のライオン』あたりから変わったんですよね。
キャスティングの時、前は実力のある役者さんの名前を挙げていたんですけれど、「芝居が上手くても進化がなければつまらない。
下手でも一生懸命やって上昇する奴は変化があるから面白いんだよ」って。
平さんの会社の名前もオルフェですからね。
「後ろを振り向かないという意味なんだよ。僕は後ろを振り向かないの。」って言ってました。
 
 

【『王女メディア』で想い出すこと】

 
井川 平さん、今回の『王女メディア』は初演の時とは人が変わったみたいに、すごく穏やかになってたからビックリしたなぁ。
驚いたよ。
 
秋山 平さんの再演の『王女メディア』のテーマは「赦し」だったんですよね。
赦すという感情をたくさん味わっていたんじゃないのかなぁ、皆んなに優しくして。
平さんは日常も芝居のことで頭がいっぱい、芝居のための日常だから。
『王女メディア』の参考文献の中に、『王女メディアのような激しい感情をもってはいけない』ということがテーマだと書いてあったのを読みましたけど、平さんの考えたテーマも同じでしたね。
本当に穏やかな平さんでしたね。
 
井川 今回は一回だけ怒られたよ。
最終場面のワゴンがすんなり回らなくて、楽屋に呼ばれて「俺は命をけてるんだ!」って怒られてさぁ。
あとは何にも怒られなかったなぁ。
 
秋山 15年前の『リア王』の公開舞台稽古の時にスタッフが転換を間違えた時、客席を横断しながら「何やってんだっ!」って、いろいろなお客さんの注目を浴びながら、初めて怒鳴りましたよね。
公衆の面前は後にも先にもそれ一回だけ。もしかしたら蜷川さんの真似をしたのかな?でも後で「怒鳴るとすごく後味悪いから、怒鳴るの本当は嫌なんだよね。」って気分悪そうに言ってました。
 
勝柴 昔、シアターアプルの公演で来ていた米国の演出家があまりにもミスが重なった時に、ニューヨークだったら[明日の朝、彼はハドソン川に浮かんでる]ときついブラックジョークを耳打ちされた事があった。
本番は問題なかつたけど その頃の日本側の受け入れが不十分だったのは確かだったね。
 
伊藤 『王女メディア』は私のスケジュールの都合で、最初に演出の髙瀬さんが平さんと美術のプランの打ち合わせをしていてくれたんですけれど、見たら4案ぐらい美術プランが変わっていました。
どんどんシンプルになっていきましたよね。
変わらなかったのはチェスの床だけ。
 
井川 何ヶ月も前からトラックに積み込める容量とか、仕込みにかかる時間、人頭とか打ち合わせしていたのに、稽古が始まったらいきなりガラッと変わったんだよね。
稽古場の隣の部屋で平さんが一人固まっていて、「変えたいんだよね。」って言うんだよ。
どうなるのかと思ったら、それがもっとシンプルになったんだよ。
 
秋山 結局パネル3枚という話になって、髙瀬さんが「パネル1枚でもいいんじゃないですか?」って言ったら、平さんが「僕はいいけど、皆んなが芝居できないと思うよ。
3枚でいいんじゃない?って(笑)。
 
伊藤 結局、パネルはアクリルで厚みと高さがあったりして大掛かりだったけど、『王女メディア』は、元は何にもないギリシャの野外劇場だったんですから、何もいらないと言えばいらないんですよね。
 
秋山 平さんの変更は予算削減のことも考えた上での変更だから、プロデューサーの立場で言うと本当に助かるんですよ。
でも、初めてご自分で演出した『冬物語』の時は、いきなり「車出せないかな?」って。
無理なのは分かっていても言いたかった、演出家としてのイメージを広げたかったんでしょうね。
最初は私も無謀な平さんの演出プランにビビッていましたけれど、言ってみるだけというのが、だんだんわかってきました。
もしかして私を脅かして楽しんでいたのかなぁ(笑)。
 
井川 予算を考えればできっこないからね。そんな大掛かりなものでは旅も回れないし。平さんは高い所が好きなんだよね。メディアの最後のバルコニーも「もっと上がりたいなぁ。あんな低い所に座っているのは嫌だよ。」って言ってた(笑)。
 
伊藤 そうか、もっと高い所に上がりたかったのか。
自分で階段を上がるのは嫌だけど、上げて頂ければいいわけですね。
 
吉田 それにしても最後のバルコニーに上がる階段は辛そうでしたね。
横で観ていると、階段を上がる前に一回上を見てから、「ハッ!」って気合を入れて、一歩ずつドン、ドン、ドンて上がって行っていたけれど、それはそれは辛そうだった。
 
伊藤 平さんは芝居になると、その辛さを感じさせないから凄いですよね。
 
高橋 地方を回って来て、東京公演のグローブ座の舞台稽古の時に、楽屋へ挨拶に伺うと「やりたくない、またあの階段上るの嫌なんだよ」と駄々をこねられて、確か30分程開始が遅れたんですよ。
グローブ座は楽屋から舞台まで階段がきついので、だいぶ膝に負担がかかってたんじゃないですか?   
 
井川 グローブ座は特殊な舞台、客席だから大変だったんだよね。
役者は袖からじゃなくて客席から出なければならなかったし、赤い布も袖から引っ張って行けなくて舞台前に置いた箱の中に入れて用意しておいたんだよね。
 
伊藤 2012年の初演の『王女メディア』で思い出すのは、「声」のこと。最終稽古で全く声が出なくなったんですよね。
「このままでは初日が開けられない!」っていう大変な騒ぎのまま、稽古場での最終日を終えた。
 
勝柴 稽古場でかなりナーバスになっていたからね。
喉にポリープが出来ても仕方ないくらいの状況だった。
その影響もあって、仕込み日が減ったりしてすぐ舞台稽古に突入したんだよね。
 
城戸 平さんとしては自分が出したい声色を出せない時、調子が悪いって言うんですよね。
そんな時でもたいてい表にいると平さんの声が一番聞こえてくるんですけどね。
でも、あの時の稽古場では全然出ていなかった。
 
吉田 その後の稽古は、平さんはパントマイムで、プロンプターが台詞を言いましたよね。
前代未聞の稽古でしたね。
 
秋山 仕込みの日、病院帰りの平さんから電話がかかってきて、「奇跡が起きたよ!ポリープが消えていたんだよ!」って、今までで一番嬉しそうな声でしたね。
まさに、狂喜乱舞っていう感じ。お医者さんも平さんの強靭な声帯にびっくりしていたって。
 
城戸 舞台稽古が始まる前に、冒頭の屋敷の中から聞こえて来るメディアの声の録音があったんだよね。
それがまた素晴らしい声で、しかも一発でOK!ビックリしたなあぁ。
僕たちはキツネにつままれたような感じだったね。あの集中力は本当に凄かった。
 
麻生 一難去ってまた一難。舞台稽古でマスコミと演劇鑑賞会の「通し稽古見学」があったんですけど、嫌な予感が・・・。
案の定、通し稽古の途中で平さんはカツラを取って羽二重のまま舞台の噴水に腰掛けて、「カツラが痛くてもうできない。」って芝居を中断しちゃいましたね。
 
吉田 見学者の方にはお帰りいただいて、それから大変な騒ぎでしたよね。
ヘアメイクさん、かつら屋さんを呼んで緊急で修理してもらって、落ち着いたのは翌日の舞台稽古直前。
時間との戦いだったので、今思い出しても冷や汗が出ます。
 
伊藤 だから『王女メディア』は初日が開いた時にすごく感動した。  
 
秋山 そう言えば、『冬のライオン』の時も声の調子が悪くなったんですよね。
その時、平さんは「こんな電気じゃ眩しくて目が痛いよ!」って、稽古場の電気に文句を言い出したんですよ。
慌てる私たちに「スポットライトがあるよ。」って。ちゃんと天井にはスポットライトがあって、スポットライトだと集中できるから、変えて欲しいとうことだったんです。
平さんはワガママを言う時はちゃんと答えを用意していました。
そのことに私たちは後で気付くんです。自分だけ苦しむのはつまらないから、私たちの困った顔を見るのを楽しむっていう感じでしたね。
 
山下 「幹の会」の照明操作は参加したい人が多くて競争率激しかったなぁ。
みんな本当に行きたがるんですよ。
平さんが頑張ってるから、みんなもそれに引きずられて頑張るんですよ。
 
伊藤 私は美術だけど、勝柴さんも高橋さんも、プランナーの方々は、旅公演に付いて行かないから、半年間も公演期間があると、まだやってましたっけ?という状態になりますよね。
 
山下 旅公演に出ると、劇場は違うけど毎日同じことをやってるわけですよ。
昨日1時間かかった仕込みを今日は59分でやろう!って、みんなが頑張る。
そういうことで気持ちを繋げて行くので、旅公演ならではの面白さがあるんですよ。
 
 

【平さんのお付き合い】

 
高橋 確か「公演期間中は僕(お酒は)飲まないんだよ。」って言ってましたね。
 
吉田 『冬のライオン』の時はくつろいでワインをよく飲んでましたよ。
劇場からホテルに帰る時、平さんのリュックからワインがニョキ、ニョキって2本出ている。
「あっ、今日は2本だぁ~」って思いながら眺めてた(笑)。
 
麻生 あの時は、出演者も少ないし、内容も家族の話だったから、食事会もたくさんして、家族のような感じで楽しみながら旅を回っていましたね。
 
高橋  うちの事務所が平さんの家と同じ豪徳寺で、平さんがよく行っていた蕎麦屋があるんです。
今でも、平さんがいつも座る席にワインが置かれていて、陰膳してあるんです。
ちょっと感動するよ。
その蕎麦屋の主人が「平さんは豪徳寺で人気者だった」と。
足裏マッサージの店でも話題になってます(笑)。
 
井川 平さんは色々なところで人付き合いしていたんだなぁ。
 
高橋 今度みんなでその蕎麦屋に行きましょうよ。
勝ちゃんが平さんとは一番長いよね。
 
勝柴 僕は『親鸞』の時、北海道で一緒に麻雀やりましたよ。
その日は北海道の前乗りで『勝、麻雀やろうか』って。
よっぽど機嫌が良かったんだと思うんだけど。
  
井川 2012年のメディアの初演は、俺は平さんとはほとんど口聞かなかったよ。
喋ったのは楽屋に謝りに行った時の一度だけ(笑)。
それから考えると再演は本当に変わったよ。
「15分前でーす。」って楽屋に行くと、「やりたくない。」「はい、わかりました。そこを何とかひとつ。」という日もあれば、「15分前です。」「待ってました!」5分前に「お待ちしてました。」って言ったら「そうきたか!」(笑)。変わり方、すごかったよ。
袖でもいろんな話したもん。
 

【平さんの旅公演】

 
高橋 冬場はいつも心配でしたね。
体調を壊されることが多かったから、風邪でも引かれたらどうしよう、声が出なくなったらどうしようの連続で、いつもワイヤレスマイクをスタンバイしてました。
 
城戸 「ワイヤレス用意してますけど、どうしますか」って言ったこともあるけど、「うーん、いらない」って。
 
秋山 平さんに一番怒鳴られたのは、制作かな?直接やり取りをするのが一番多いから仕方ないね。
 
麻生 そうですよ。
携帯の留守電にすごく響くあの声で、ものすごい怒鳴り声が入っていたこともありました。
その時は平さん、桶川の劇場の入口で迷子になっていたんですよ。
「俺はどこへ行けばいいんだ!」って、こっぴどく怒られました。
劇場を出る時、貴重品を入たロッカーの鍵が開かなくなって、すごく怒鳴られたこともありました。
それからは、私が貴重品を入れたリュックを背負うようになりました(笑)。
 
吉田 他の劇団は演劇鑑賞会の例会に入れてもらうのが大変なのに、平さんはすごいですよね、本当に。
全国の演劇鑑賞会に20年間以上あんなに人気があって。
 
山 100ステージ以上ないと予算的に厳しいので、たくさんの鑑賞会が例会に取り上げてくださって有難かったですね。
2002年から年をまたいだ『リア王』なんか149ステージもありました。
日本全国の演劇ファンに人気があって、「幹の会」を立ち上げてからの20年間ずっと平さんは役者として旬であり続けたんですよ。
これは本当にすごいことですね。
 
井川 全国に売れるってすごいよね。
九州に呼んでもらえるようになってから、だいぶ変わりましたよね。
九州は印象に残りますよね。2ヶ月間行きっぱなしになりますから。
 
山下 嬉しかったのは、日本照明家協会で推薦する作品ていうのがあるんですけど、『オセロー』で四国の演劇鑑賞会を回ってた時に、四国で推薦されてたんですよ。
あれはすごく嬉しかった。
 
秋山 平さんは以前、稽古のほうが楽しいって新聞のインタビューに答えていました。
でも、30ステージの公演が100ステージの公演になったら、今度は毎日の公演も真剣な稽古の場でもあるねということになって、そうなると本当の初日はいつ開くかっていう話にもなりました。
100ステージあったら、平さんは大抵95、96、97ステージ目くらいでしたね。
『王女メディア』は100ステージ目でした!
 
山下 それだけ公演数が多いと、キャストとスタッフの距離も縮まるんですよね。
照明以外の事でも、本当にいろんな勉強しましたよ。芝居以外にも。楽しかったな。
 
秋山 私も平さんが亡くなった知らせを聞いてからずっと信じられなくて。
栗山民也さんからいただいたメッセージに、「信じられないのは自分が信じたくないからだと思う」って書いてあったんです。
本当にそうだなぁって思いました。
 
山下 だって去年の今頃、一緒に旅回っていたんだから。
信じろったって無理ですよ。
全然元気だったじゃないですか。
今もういないなんて思うのは、無理だ。
 
城戸 最後の『クレシダ』公演の旅、一緒だったけどすごく元気だったから、亡くなったことを知って、えーっ、何!?何!?って。
 
秋山 生活の中で、平さん何をやってるのかな?と思うと、大抵芝居のためにやっていることが多かったですね。
 
伊藤 勝柴さんも同じですね。
さっき、ここに来る前に下でたまたまあったんです。
お会いしたのが、久しぶりだったので、「お元気ですか?最近どうですか?」と聞いたら、「最近奥さんに『そろそろ何のために生きているのか考たら』」と言われるくらいのスケジュールらしいです。
で、私が「では、正直に『照明やるために生きています』とはっきり答えたらいいのではないですか」と。勝柴さん笑っていましたが。
ね?(と勝柴さんに)
 
麻生 亡くなる前日に赤ちゃんを抱いている写真を見せてもらったんですよ。ぎこちない手で抱いてるんだけど、すごく幸せそうな顔してましたよ。
 
勝柴 蜷川さんとも和解できたしね。
『リア王』で再会した時は喜んでたもんね。
稽古場が本当に楽しそうだった。
 
高橋 昨年、 世田谷パブリックシアターとシアタートラムで、シェイクスピアのポスター展があって、1968年、平さんが俳優座を出られて劇団四季の「ハムレット」に出演された時のポスターが飾られていた。
「平さん、懐かしいポスターがありますね。」って言ったら、「そうなんだよねぇ。」って照れくさそうにしていた。
 
勝柴 僕なんか『ハムレット』の本番に付いてましたから。
その時は、もちろんペイペイでした。
 
全員 へえーっ!(笑)。
 
秋山 皆さんと平さんとの「歴史」の一端を伺うことができたような気がします。
改めて思うんですけど、平さんは皆さんに愛されていたんだなぁ、って。
平さんも天国で苦笑いをしながら聞いてくださっていると思います。
 
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

                  『王女メディア』スタッフ一同