幹の会と株式会社リリックによるプロデュース公演の輝跡

 

「ありがとうございました、
平さん。」

栗山民也(演出家)

 
 あまりに、突然のことでした。
人の死は突然にやってくるものですが、平さんのことは今になっても信じることができず、というか、信じてしまうことをどこかで拒否しているような気がします。
 思い返すと、あまりにいろんな風景のこびり付いた思い出が、巡ってまいります。
ほんとうに、大きな方でした。新しい戯曲を読んでいて大きな人物と出会うと、その箇所で必ず平さんのことを思い浮かべました。
大きいということの意味も、その時にいろいろ考えながら。
 もうずっと前のこと、ひょうご舞台芸術の制作で「獅子を飼う」を上演しました。
秀吉役の坂東三津五郎さんと利休役の平さんの、政治と芸術が真正面から対峙するドラマで、まだ若かったわたしは、多くのことをこの稽古場から学びました。
俳優が役を組み立ててゆくなかで、ちいさなアイデアで隙間なく埋め尽くしていくという方法もありますが、
平さんは稽古であらゆる実験の中で見つけた幾つもの描写や役の性格を、ある時から、壊し、組み立て直し、そしてまた削り、
まるで一本の線だけで描かれたような演技で、役の心の強い根っこだけを残すのでした。
 
だから、観る側には無数の解釈と理解が、自由に生まれるのです。
 
そこに行き着くまでの稽古場は、それがたとえ柔らかな喜劇的な場面であったとしても、いつもピンと張りつめ、厳しく緊張感に充ちた、限りなく甘美な時間でした。
 
 また後輩など若い役者に対し、つべこべと演技論などを話すことなど、一度も見たことはありませんでした。
ただ、無心に演技を続けるその全身で、俳優の在り方を示すのです。
「クリちゃん、ボクはトリッキーな俳優じゃないから、いろんな欲求をすぐにはこなせないんだよ。ごめんね。」とても印象に残っている平さんの言葉ですが、
トリッキーなどといった小器用な技術よりも、何の理屈もなく舞台にすっと立つ、その頑固で美しい大きな存在だけが、わたしにとっての平さんでした。
そして、その瞬間を、わたしはいつも求めていました。
 いま目を閉じると、平さんのあの大きな笑い顔、あの響きわたる尊厳からの声が、確かに聴こえてきます。
 
 やすらかに、おやすみください。
 
 


 

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