幹の会と株式会社リリックによるプロデュース公演の輝跡

LinkIcon アポロンの光と闇のもとに 

—ギリシャ悲劇『オイディプス王』解釈 

(川島重成=著 三陸書房=刊)

 

『オイディプス王』におけるイオカステ像

川島重成(大妻女子大学教授国際基督教大学名誉教授)

 
 『オイディプス王』はオイディプスの自己発見(アポロンの神託がすでに成就していることの発見)をテーマとする。
オイディプスの恐ろしい素姓はイオカステのそれでもあった。
オイディプスは、そしてイオカステはこの悲劇において、まさにその真実について何も知らぬ者から一切を知る者へと変化せしめられるのである。
これが『オイディプス王』のプロットの展開に他ならない。
イオカステはオイディプスに先んじてこの〈発見〉に達する。
このギャップに注目することは、〈知〉と〈無知〉のドラマとしての『オイディプス王』解釈に本質的だ、と私は考える。
オイディプスがまだ知らず、イオカステが知っている、その間に見せる彼女の言動は、後述するように、オイディプスとは違う─いわば男と女の差に匹敵するほどに相違する─イオカステの人間性を隈なく示す。
 
 それではイオカステはオイディプスの、つまり自分自身の素姓をいつ知ったのであろうか。
これについては大きな見解の相違がある。
テキストにその箇所がト書きによって明示されているわけではない。
従ってイオカステやオイディプスの台詞からその箇所を探り当てるほかはない。
私は、オイディプスが彼の若き日の物語を語り、そのなかで彼自身がデルポイで受けた恐ろしい神託に言及したとき、すなわち、彼が自分の母親と交わり、見るに耐えない子孫を世に示し、自分を生んだ父親の殺害者となろう、と告げられたと語ったときに、イオカステは全てを察知した、と解する。
なぜかといえば、イオカステがその前後に、二度にわたってアポロンの神託に言及するが、そのニュアンスに明確な違いがあることに重要な意味があると考えるからである。
 まずイオカステは、ライオス殺害犯はオイディプス自身だとの予言者テイレシアスの告発の背後に、クレオンの政治的陰謀ありと疑い憤慨している夫の心を安んじようとして、前の夫ライオスに下った神託を持ち出した。
その際イオカステは予言者と神アポロン(ポイボス)を明確に区別している。
予言者は人の子なれば間違いを犯すこともある。
それゆえテイレシアスの言ったことで心を乱すことはない、というのである。
しかし皮肉にもこのときイオカステがなにげなく口にした“三叉路”の一言が、オイディプスにもしかしてライオス殺しは自分ではないかとの深刻な疑惑をもたらした。
そのことが彼にかの三叉路にいたる過去の経緯を語らしめることになった。


 

中村義裕(演劇評論家) 

 
 この作品が今でもいろいろな機会に上演されるのは、普遍性を持つ人間の感情の根源に触れているからであろう。自分の父を殺し、自分の母を妻としてしまった王の悲劇。オイディプスを演じる平幹二朗過去に一度演じているが、今回の舞台は自らが演出も行っている。作品の厳選は難しいが、あえてこの「大古典」に挑み、自らのプランで演出をする彼の中には何か期するところがあったのだろう。
 
 舞台はニューヨークのハーレムの路地裏。そこに訪れた旅芸人の一座が演じる悲劇という設定になっており、幕開きに平のオイディプス王は白いコートに身を包み、現代人の服装で現れる。これは、数千年の時を閲(けみ)した悲劇が、今もなお続いているということの暗示に他ならない。そこで、登場人物が現代の衣装を脱ぎ捨て、一転してギリシャ悲劇の世界に入っていくが、そこに不自然さはない。そこに、ゴスペルの響きが加わる。あえて今回のオイディプス王を「楽劇」とうたった所以でもあろう。それがギリシャ悲劇のコロスの多重性の声の響きとの相乗効果をもたらす。こうした感覚は面白いものである。
 
 平幹二朗がオイディプス王を演じるについては、正直なところ、いささかの危惧があった。というのは、この役は若い役であり、彼のように風格のある年齢の役者が演じるものではないからだ。しかし、その懸念は杞憂に終わったようだ。定評のある科白の朗唱術を見事に発揮し、観客をギリシャ悲劇の世界にグイグイ引きこんでいくエネルギーはたいしたものだ。最初に観た彼の舞台が25年以上前の「王女メディア」で、当時中学生だった私は大きな衝撃を受けた記憶があるが、今でもその精神を失っていない瑞々しさが、役を自然に見せるのだろう。
 
 オイディプスの母にして妻であるイオカステに鳳蘭。意外なことに初共演だとのこと。一言で言えば、多くの面において、釣り合いがよい。演技はもちろん、体格、声。彼女ぐらいのボリュームとエネルギーを持つ女優でなければ、平のオイディプスが発散する力を受け止め、共に悲劇の地獄へ落ち込んで行くことはできなかっただろう。それでいて、ガラスのように硬質な美しさが、より悲劇を際立たせる効果を上げた。
 
 坂本長利の羊飼い、藤木孝のテイレシアスなど、脇を固める人々も贅沢な配役である。クレオンの原康義、祭司の深沢敦らも加わった一座は、7月3日に「かめありリリオホール」で初日の幕を開け、多くの地方を巡ってこの新宿の公演で4ヶ月以上にわたる旅に終わりを告げた。しかし、オイディプスの魂の苦悩はまだ永遠に続くことだろう。最近収穫の舞台である。
 
紀伊国屋サザンシアター

NPO法人 富士市民劇場 

『オイディプス王』感想−文集より

★ギリシャ悲劇の中で最高傑作と評判の『オイディプス王』。どんな内容なのか先に本を読みました。頭の中に情景を描きながら観ることが出来、読んで良かったです。
引き込まれました。



★劇の中での祈りの歌、場面場面での宗教的信念を歌い上げている合唱歌場面での宗教的信念を歌い上げている声楽がすごかったです。



★オイディプス王になった平幹二朗さんの発声はどの動きにしても、どこにいてもしっかり聞こえて感心しました。


「インタビュー後に平さんと記念撮影」

 

虹の演劇鑑賞会

『オイディプス王』例会後の感想から

★「リア王」にしても今回の「オイディプス王」にしても、平幹二朗が演出するような作品は気合が入っていてとても素晴らしい作品だった。



★何と哀しい結末でしょう。
自分の苦しみをまた残していく二人の子供に背負われる運命の哀しさ、素晴らしいゴスペルの力強い声量に圧倒されました。



★平さんの若々しい演技に驚きました。



★やっぱり平さんすごい!身体全体からほとばしるエネルギッシュな演技に圧倒された。



★重厚なお芝居を観た感じがしました。オイディプス王の過酷な運命に涙が出ました。
歌も良かったです。


『オイディプス王』各地から寄せられた感想

 
★幕が開くと薄暗い中に、人間たちに混じって人形が数体立っており、ニューヨークのハーレムの夜を表していました。
芝居の中で旅芸人の一座が「オイディプス王」の芝居をします。
このことを頭に入れて見て頂ければよいと思います。
平さんも鳳さんも長身で舞台に映えてギリシャ悲劇を演じぴったりの方でした。
父親を殺して母親と結婚するなんて、普通では考えにくい世界で、平さんが母親との間に出来た子たちの前でその子たちの将来を思って悩んでいる姿に涙させられました。
自分の息子であると分かってからの、鳳さんの豹変ぶりは見事でした。最後に流れた歌はいつまでも耳に残っています。
楽劇といって歌をたくさん歌われているので、血の悲劇の中にも心がなごみます。


★劇中劇である最初の場面でのニューヨークハーレムの路地裏で、旅芸人の場面で鳳蘭さんの歌と踊り、さすが大スター胸が高鳴り、「オイディプス王」(ギリシャ悲劇の代表作)を、どのように各々が演じて観せてくれるのだろうと胸が熱く膨れました。
ゴスペルのコロスが悲しげに美しく歌われていました。
窓の中のラブシーンは演じ方の妖艶な動きが二人ならではだと感じ入りました。
長いセリフも表情も、細かな動作もすごいです。
物語は神託の恐れから流れたと思うが、真実をどこまでも追求していくオイディプス王は、気付いた時はどんどん悲惨な自分で神託の通りにもっと不幸に子どもたちは送ることを案じ、父より幸せにと願う親心をつのらせていた。
父ライオスの不徳がオイディプス王の災い、それはその子たちへと継がれる。


★この物語は非日常なものであるが、平幹二朗さん・鳳蘭さんが演じることによって、悲劇ながらも豪華さが感じられた。
また出演者が劇中の人物そのものに見えてきて、歌やコーラス、そして踊りなどもとても素晴らしかった。
イオカステがオイディプスの足元をめくり、「自分の子であることを確信」するとことは真に迫るものがあ
り、彼よりも先に親子であることに気付き苦悩する場面などは髪型や形相などがよく現れていた。
劇中劇ということで、ニューヨークのハーレムが舞台だがそれがシンプルだったのがかえって「ギリシャのその時代」に見えて物語に引き込まれていった。
休憩なしの2時間、緊張感のある素晴らしい舞台でした。