目次
五十音順
最高会員数更新!に喜ぶ平さん
(『王女メディア2012』大宮演劇鑑賞会例会の会場ロビーにて)
「“喪に服そうかな”
が響いた楽屋」
八戸市民劇場 本木隆志
平幹二朗さんを初めて八戸の例会に迎えたのは、1989年2月でした。
清水邦夫さんの作・演出による『夢去りて、オルフェ』です。
「崑崙山脈……血の汗を流して走る馬……日の果てるところ……家族とかきょうだいとか、そんなタブーのまるでない未知の国、見果てぬ国……」
いまでもビロードに包まれたような色気のある台詞が聞こえて来るようです。
しかし、それは今だから思えることです。
八戸市民劇場の例会日は、実は昭和天皇の「大喪の礼」その日だったのです。
その日が発表されてから劇団、会館、各地の鑑賞会と連絡を取り合い、無事例会が開催されるよう、まさに東奔西走の日々でした。
まず会館の対応は、主催者次第です、というスタンスでした。
何しろ日本中に自粛ムードが蔓延し「歌舞音曲」という普段使わない言葉まで飛び交っていましたから、会員の皆さんも例会が出来るのかどうか不安でいっぱいでした。
私たちは当然公演する意思満開です。
もちろん劇団も。
そして全国とりわけ東北の各地からは「頑張れ」の声援をいただきました。
さらに出演者の負傷というアクシデントまで飛び出しましたが、なんとか例会日を迎えました。
まだ東北新幹線は、上野から盛岡までの時代です。
SLでも走りそうな旧八戸駅からホテルへそして会場へ。
街は半旗が翻り、水を打ったようにシーンと静まり返っています。
あちこち準備をしながら制作への用事で楽屋へ向かいました。
平さんの楽屋の前で「挨拶しましょう」ということになり、ドキドキしながら挨拶をしました。
その時後ろ向きのままの平さんの口から「僕も喪に服そうかな」という言葉が飛び出しました。
「これは昭和の鎮魂歌のような芝居だから」と続きました。
オロオロする僕の方を振り向いて、平さんがニヤリと笑いました。
「冗談ですよ」僕のひきつった笑いはどう映ったでしょう。
例会は無事終わりました。「この芝居でこんなに笑われたことはない」と終演後の平さんが語ったように、会員は正直です。
朝からの真っ黒いテレビから解放された劇場はどんなに自由だったことでしょう。
八戸の新しい時代を平幹二朗さんが開けてくれました。
「平さん大変失礼いたしました」
八戸市民劇場 本木隆志
平幹二朗さんは八戸市民劇場の例会で七度お迎えしています。
いつも「これが最高だなぁ」と思わせ、次の回には良い方に裏切ってくださいます。
知らず知らずに「次はどんなだろう」と期待します。
計算すると僕たちは、50代から80代の平さんを観たことになります。
どうでもいいことですが、客席の僕は30代から60代です。
一方的ではありますが、何と長い付き合いでしょうか。
平さんは身体のケアに真剣に取り組んでいらっしゃいました。
八戸に来た時に紹介した、マッサージ・鍼・灸の看板を掲げた治療院をずいぶん気に入ってくださって、八戸にいる日は必ず通っていらしたようです。
通うと言ってもホテルから徒歩で片道25分から30分なので「よかったらタクシーを使ってください」と申し入れても「ちょうどいい散歩コースだから」と往復歩いて通っていらっしゃいました。
その日は『オセロ―』の「交流会」の日でした。例会の運営に関わったサークル・会員さんにとって、さっきまで舞台で演じていた俳優さんたちと親しく話ができる至福の時です。
僕はホテルへ交流会の開始時間の10分くらい前に迎えに行きました。
ところが平さんがいません。
共演の方が「マッサージですよ」と教えてくださいましたので、ロビーにいらした皆さんと雑談して待つことにしました。
ほどなく平さんが少し息を切らして「やぁ申し訳ありません」と登場しました。
会場への道すがら治療院の話などをして、5分ほどで到着しました。
エレベータで4階へ。僕はいつものようにドアの向こうに「いらっしゃいました」と声をかけたのですが、人がいる空気がありません。
おそるおそるドアを半開きにして中を覗くと、役員の数人が困った顔をしてこちらを窺います。
俳優さんたちに「ちょっとお待ちください」とだけ言って、最小限にドアを開けて中に入りました。
どうやら開始時間の徹底が不十分だったようです。
窮した僕たちは、前代未聞の俳優さんに席についていただいて、サークルのみんなが後で入るという交流会をやってしまいました。
平さんその節は本当に失礼いたしました。
「平幹二朗さんの渾身の舞台と人間性は虹の演劇鑑賞会の宝物」
虹の演劇鑑賞会 前事務局長 西山十四子
平さんの訃報は当日TVのニュースで知りました。
驚きと信じられない思いで、鑑賞会事務局でも会員と語り合いました。あのエネルギッシュな演技に圧倒された舞台はもう観られないのだと、話はつきませんでした。
例会としての出会いは1997年第51回例会シェイクスピア四大悲劇「リア王」でした。
そのスケールの大きさと迫力、舞台の魅了に私たちを圧倒したことは言うまでもありません。
その二年後の1999年第65回例会はシェイクスピア四大費劇と対をなす喜劇の最高峰「十二夜」でした。
まだ二年前の「リア王」の平さんの壮絶な舞台が醒めやらない時でもあり、その軽やかに鼻持ちならない執事役の喜劇の平さんの芸境の深さに驚きを交えて感動でした。
2004年の第97回例会「オイディプス王」に向けてのインタビューは忘れることが出来ません。
10月例会を前に7月上旬に千葉市民会館を訪ねて、「ちば演劇を観る会」の例会前の時間をいただき、インタビューをいたしました。
役作りのために茶髪にされた平さんは、にこやかに、物静かな笑顔で迎えてくださいました。
「役者になったきっかけは?」「主演で演出もされますが、『オイディプス王』にかける思いは」「身体を鍛えてボディ作りをしていると聞きますが」「役作りのポイントは」「運営サークルに何かひと言」各地のインタビューで同じ質問を受けているでしょうが、ひとつひとつ丁寧にお話しくださいました。
インタビューが終わり去りがたい私たちに「もう少し時間ありますよ」と言ってくださり、話すことが出来ました。
「息子(岳大さん)が役者になりたいと言ってきているのですがどう思いますか。
ニューヨークにいる息子は27歳になるんですよ。
年齢的には遅いのではないかと心配なんですよ」と話し出されました。
その時の平さんは慈愛に満ちた、子供を思う父親の顔をしていらっしゃいました。
人間平さんにも出会え舞台とは違った感動を覚えました。
インタビューに同行した役員の感激も言うまでもありませんでした。
岳大さんの役者としての成長・活動を目の当たりにして安堵されたことと思います。
すばらしい舞台とすばらしい人間平さんは生涯忘れることの出来ない大役者です。
「平さんとふなばし演劇鑑賞会」
ふなばし演劇鑑賞会 竹内喜美子
1997年、私達のふなばし演劇鑑賞会発足9年目にして、待望の平幹二郎Kinng Learの「リア王」を迎える事が出来たのは本当に喜びでした。
シェイクスピアの代表作、舞台床が斜めに設えられていてビックリ、緊張を強いられる演出とのこと。
重厚な衣装での動き回るリア王の平さん、佐古正人、勝部演之、西本裕行、渕野俊太、等俳優陣もベテラン揃い、後藤加代、剣 幸、コーディリアの片岡京子ら三人娘の姿が目に浮かびます。
合同インタービューで斜めの舞台は魂の不安感を象徴、空間を広く距離感を出すためだが、演じる役者は緊張感を強いられると平さんは説明して下さいました。
またシェイクスピアの非日常の世界へ早く観客が到達する為の演出には、役者はかなりハイテンションで臨まなければならないとも言われました。
このあとの1999年「十二夜」。2005年「冬物語」。
2012年「王女メディア」と、ふなばしでは4作品を迎える事が出来たのです。
「十二夜」では松橋登、佐古正人、渕野俊太、後藤加代等に山本郁子も出演して、この時もベニサンピットへ稽古場見学をさせて頂きました。
平さんは、この時も忙しい合間を縫って30分インタビューに応えて下さり、「体調は歩いて整えている。年だからね」なんておっしゃつて居ました。
また「シェイクスピアの中のコメディとしては良くできている」とも、「僕はずーっと悲劇をやって来たが、悲劇は終わっても疲れが残るが、喜劇は発散するので疲れ方が違う」「男の人生を演じたい」などと話して頂きました。
とり違い劇でげらげら笑ってしまったのが思い出されます。
「冬物語」忘れもしません。ふなばし演劇鑑賞会はこれまで3ステージでした。
「この「冬物語」で4ステージに出来たら良いね。という時期でした。会員と期待を込めて話していたら直前に4ステージ人数に達してしまったのです。
平さんシチリア王リオンティ−ズ、前田美波里さんのハーマイオニ期待がうわまわり、ゲネプロの板橋の会場はかなり大勢の首都圏の会員が集まって居ました。
そのなか開演直前お二人の控室で、各会一人ずつの写真撮影が許可されました。
何と美しかったことか忘れえません。以前ちば演劇を見る会で上演があり、お芝居を見せて頂いて、ふなばしでも上演出来たらと思っていただけに本当に感激でした。
渕野、勝部、後藤、松橋、坂本らに加えて深沢敦さんの牧童すがたが妙に印象に残りました。
悲劇でありながら、最後の心温まる場面は舞台に「聖母子像」を置いた様に厳かに見えました。
2012年「王女メディア」待ちに待った舞台。
まさかこの舞台が最後になるなんて。
首都圏で統一レパートリー発足の記念すべき舞台。
そして最終会に後ろ姿で立ち去る平さんが幕に入る直前にくるりと振り帰り、会場を見まわされた姿は目に焼き付いています。
有り難うございました。平さん安らかにあの世とやらで悲劇、喜劇をシェイクスピアと語ってください。
「PROMISE」
特定非営利活動法人
ちば演劇を見る会
突然の訃報に、残念という思いが消えません。
舞台で重厚に輝き続けた俳優の突然の退場でした。2007年、ちば演劇を見る会の事務 局長・本田健さんが肺がんのために亡くなりました。
その折、追悼集に平さんが寄稿 をして下さいました。
演劇鑑賞会の舞台 を愛して下さった 平幹二朗さんの思いが伝わります のでご紹介い たします。
(『冬のライオン』会員さんと一緒に)
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PROMISE
本田健さんと惜別と云う現実を受け入れるのはとてもつらい事です。
永年ちば演劇を見る会の事務局長として情熱的に仕事に打ち込んでおられた姿。
又今年大宮で「オセロ—」公演中の楽屋に来訪されて「王女メディア」を是非、演劇を見る会で上演して欲しいと熱い想いで申し込まれた姿。
想い出は尽きません。肺癌で54才だったとの事、思えば私が肺癌で倒れ「王女メディア」のロンドン公演を諦めたのも54才の夏でした。
私は生還して20年「王女メディア」を上演して欲しいとの本田さんとのPROMISE、約束を果たして演ずべきか演じないべきか?
覗きこむ鏡に写る小皺の寄った瞼の奥に光る瞳に問い続けている私です。
今はただ御冥福を祈ります。
「平幹二朗さんの
『王女メディア』における
演技力と圧倒的存在感」
NPO法人町田演劇鑑賞会
事務局長 紫桃弘美
町田演劇鑑賞会と平幹二朗さんとの出会いは、1999年の第81回例会「十二夜」に遡ります。
当時を知る人はほんの一握りとなってしまいましたが、資料を探してみると、「十二夜」のカラーチラシに写っている平幹二朗さんの若かりし姿を見つけ懐かしさを感じました。
それから時が流れ、平さんと再びお会いできたのは、首都圏ブロックで理念が明文化され、統一レパートリーと上演料算定方法に取り組むことになった2012年の年頭「王女メディア」での例会でした。
町田で平幹二朗さんの芝居が観られるということで、多くの入会を迎えることが出来ました。
作品は「演劇史上に残る“永遠の名演技”」と謳われるだけあり、平さんの気迫のこもった演技に、観劇している私たちも、身動きできないぐらい感動したことを覚えています。
搬出の時に雪が降り始め、トラックに描かれた平さんの王女メディアの肖像が雪で埋もれていったことも懐かしく思い出されます。
平幹二朗さんの演技を生で観ることはできなくなりましたが、「王女メディア」のあの演技は、いつまでも私たちの心に残っています。
「平幹二朗さんとの思い出」
川崎さいわい市民劇場
事務局長 菊谷友美
川崎市民劇場なかはら
事務局長 藤井千鶴子
私たち両市民劇場は、2013年に川崎市民劇場より分離独立をしましたので、平さんとの出会いは独立前でもあったことから、このメッセージは二つの団体共同で寄せさせていただきます。
平さんの“幹の会”と私たちの鑑賞会との最初の出会いは、1995年2月の『オセロー』(9ステージ)例会です。
当時は幹の会+安澤事務所制作としてお迎えし、その後は幹の会+リリック制作で2005年4月『冬物語』(7ステージ)、2012年4月『王女メディア』(3ステージ)と2回にわたり、平さんとの出会いがありました。
3作品とも、劇団という集団での創造作品ではありませんが、劇団俳優座ご出身である平さん自身の中に浸み込んだ、演劇創造に対する情熱やこだわりを感じさせられました。
また、リリックの秋山佐和子さんからは、78歳の平さんの舞台への熱い思いや、全国各地の異なる会場(大・小)に対応するために、本番前に舞台から後方の席まで届かせる発声を繰り返し行い努力されていることを伺いました。
平さんの舞台から発信される思いは、会員の心に届き、時を経てもなお、今も心に残る舞台の一つとして話題に上ることがあります。
当時の会報に、前例会の感想や運営の取り組みをまとめた「芝居が跳ねて」というコラムを掲載していました。
カーテンコールの写真とともにご紹介します。
『王女メディア』芝居がはねて単純に「良かった」と言うより「凄かった」「素晴らしかった」という驚きと賛辞の声が多く寄せられた舞台でした。平幹二朗さんの、78歳とは思えない迫力と美しさ。
本場ギリシアでも大絶賛されたメディア役への思い入れ…。
裏切った夫への憎しみだけでなく、それでも愛しているという切なさに、観ている私たちは、自分の子どもを殺めるという衝撃すら吹き飛ばされ、カーテンコールには、珍しく立ち上がって拍手するという「スタンディングオベーション」で、その感動を表現しました。
ギリシア悲劇というのも新鮮でした。
すべての固有名詞を一般名詞に書き換えた(アテナイ→隣の国など)「修辞(脚本)」の力で、遠い昔の外国の話にならず、人間の普遍的な姿が描かれていることがわかりました。
また「コロス」という、時に合唱舞踊団となり村の女たちの役も演じるという、ギリシア劇特有の不思議な存在の面白さも知りました。
「私の心を熱くした
『王女メディア』」
藤沢演劇鑑賞会
池上祐子
2012年、藤沢演劇鑑賞会4月例会、幹の会+リリック・プロデュース「王女メディア」を観た時の感激は今でも忘れません。私は平さんの舞台を観るのは初めてでした。
78歳の平さんがメディアを演じると聞いたときは正直驚きました。
これはいったいどういうお芝居になるのだろうと。「50歳の時アテネの舞台にたち、ギリシャ以外の国の人がギリシャ悲劇を演じ、初めて絶賛をあびる」と書いてある資料を読み、この舞台への期待は高まるばかりでした。
王女を男優が演じる事に演劇の常識を覆したとありました。たしか平さんが「王女メディア」は男が演じても良いと思ったというのを書いたものを目にした記憶があります。
平さんのおっしゃったとおり何の違和感も覚えずに舞台に引き込まれて観ていました。
夫の裏切り・夫への復讐、そして女として・母としてのメディアを演じる平さんに想像をはるかに超えた舞台に出会った瞬間を思い出します。
舞台と客席が一体となって生まれる感動とときめき、同じ空間で同じ思いを分かち合う喜びを感じて、長く記憶に残る舞台となりました。
一瞬も一生も美しく演じられた平さんのメディアを観ることができた私はとても幸せです。
何度でも平さんのメディアにお会いしたかったですのに、本当に残念でなりません。
平幹二朗様、本物の感動を与えてくれた舞台に巡り会えた事に感謝いたします。
ありがとうございました。
『王女メディア』をお迎えして
NPO法人茅ヶ崎演劇鑑賞会
事務局長 溝口鉄也
私たちNPO法人茅ヶ崎演劇鑑賞会の前身である旧湘南演劇鑑賞協議会では、『メジャー・フォー・メジャー』(1996年)、『リア王』(2002年)、『冬物語』(2005年)で、平幹二朗さんの舞台を例会に迎えていますが、2009年に法人格を取得しNPO法人茅ヶ崎演劇鑑賞会として分離独立以降にお迎えしたのは、2012年4月例会『王女メディア』のみとなってしまいました。
2012年と言えば、前年2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響と、折悪しく私たちの例会場である茅ヶ崎市民文化会館の工事休館による隣市での合同例会が重なったことから会員数が激減し、そこから立ち直ろうと必死にもがいていた時期です。
平幹二朗さんという有名な俳優が主演の舞台とは言え、決して楽な戦いではなかった運営サークルでしたが、運営サークルの会員達を奮い立たせ、勇気付けたのは、やはり平幹二朗さんの『王女メディア』へのこだわりと思い入れ、そして平幹二朗さんの真摯に挑む気持ちを知り、それに応えたいと一丸となれたからなのでしょう。
リリックの秋山佐和子プロデューサーは、「平幹二朗さんは劇団俳優座の出身。
繊細さと大胆さ両方を兼ね備え、男性と女性の両方の気持ちがわかる稀有な俳優。…舞台と客席の応酬でますます芝居は良くなる。」とのメッセージを、サークル・会員に向けて送って下さいました。
この時、平幹二朗さんは78歳。体力の限界に挑み、長きに渡る俳優生活の中で、ご自身の心の中にいつまでも住み続け離れない主人公のひとり『王女メディア』のメディアに、決別の覚悟を持っての舞台でした。
それ故の思い入れからなのでしょう、素人目には分らないようなポスターの微妙な色調にもこだわって、差し替えとなったことが思い出されます。
結果として、サークル数・会員数とも前例会クリアを達成してお迎えした『王女メディア』は、それこそ身震いするほどの圧巻の舞台でした。観劇後のアンケートに記載された感想をいつくか紹介します。
●平さんの一人台詞は圧巻でした。グイグイ引きこまれ、あっという間の2時間でした。
●軽いことが良しとするこの時代に、久しぶりに「重い」作品に出会うことができ感激しました。セリフのたくみさに当代一の平さんらしさを感じました。
●女の情念をここまで描いた作品は初めて見たような気がします。平さんのお芝居は、すばらしいの一言につきます。
●素晴らしかったの一言、さすが平幹二朗は声もよく通り、貫禄充分、ずっと続けてほしい。
●久しぶりに身にせまる芝居、考えさせられました。
人は皆、神にそむかない人生を送りたいとしみじみ感じました。平さんとってもよかったです。
●はじめてのスタンディンぐオベーシヨンを経験しました。78歳の「王女メディア」の迫力に圧倒されました。休憩なしの1時間50分!! 舞台の様式美、色彩、存在感、平幹二朗さんってすごい。
王女メディアの悲しみ、愛と憎しみ、ギリシャ悲劇の世界を私は「どこにでも起こり得る普遍的なドラマ」としてまでは感じられませんでした。
復讐って悲しい。できることなら、もう一度最初から見直したいと思います。
●最前列で観ましたので大迫力。舞台では俳優は本当に涙を流すというのを知りました。
顔の表情も激しく変わるのを見て、感激をおぼえました。
終演後、あの迫力の舞台を終えてお帰りになる平さんにご挨拶させていた時の、柔和な笑顔と包み込むような優しい口調を、今も忘れることが出来ません。
平さんの中に脈々と息づいていた新劇運動の精神と、ご自身のこだわりと熱い思い、そして、全ての人へ向けられた感謝と敬意を、あの存在感と迫力に満ちあふれた圧巻の舞台と、帰り際に垣間見た舞台とは正反対の優しさから感じ取ることが出来たことを思い出すと、魂が震えるような感覚が今も蘇ってきます。
もう二度と、平幹二朗さんのあの素晴らしい舞台と、あの柔和な笑顔に接することが出来ないかと思うと、本当に残念でなりません。
NPO法人茅ヶ崎演劇鑑賞会の事務局長としては、たった一度でしたが、平幹二朗さんの舞台を例会にお迎えできたことは、私自身の人生に於いても、そして私たちの会にとっても、掛け替えのない貴重な財産です。
平幹二朗さんに出会えたことを、心から感謝致します。
本当にありがとうございました。
「平さんの
『王女メディア』」
NPO法人鎌倉演劇鑑賞会
事務局長 長田敬子
鑑賞会の例会としてお迎えした舞台は『メジャー・フォー・メジャー』(1996年)、『リア王』(2002年)、『冬物語』(2005年)、『王女メディア』(2012年)の4作品。
『メジャー・フォー・メジャー』の時のインタビューでシェイクスピア作品について、平さんは「60歳で全作品を演る目標を立てたのですが、時期が遅かったので、今のところは毎年一本。
僕は悲劇のほうが好きだから、次は『リア王』あたりに取り組みたい」と話されました。
そして迎えた『リア王』の舞台では、「今、リアを最も演じたいと思っている。リアの心境なども分かる年になり、今が一番いい時期。
この役は体力が必要で、リアと同じ年代(80歳)になっては勤まらないと思って再演した」と語られました。そして『冬物語』とシェイクスピア作品を迎えてきました。
どの作品も印象深い舞台でしたが、なかでも鎌倉演劇鑑賞会が独立した2009年以降にお迎えした『王女メディア』は今も鮮やかに記憶のなかに蘇ります。
この舞台を成功させようと運営サークルで奮闘し、結果的に前例会を超えてお迎えできたことは大きな喜びでした。
俳優生活57年のなかで心の中にいつまでも棲み続け、何度かの再演を経ても心の中に居続けるという主人公メディアに挑み、あらたな演出、スタッフ、コロスでの渾身の舞台は長く私たちの心にも棲み続けるでしょう。
運営サークルから寄せられた感想をご紹介して、平幹二朗さんが私たちに残して下さった素晴らしい舞台に改めて感謝したいとおもいます。ありがとうございました。
「王女メディアの声が今も」
神戸演劇鑑賞会
林 政子(サークル神無月)
2012年、神戸演劇鑑賞会の2月例会は、「王女メディア」。乳母の簡単な、状況の説明のようなモノローグのあと、姿はなく、平幹二朗さんの声だけが響く。
あれ?男性の声のまま?この違和感はあっという間に消え失せ、夫の裏切りを嘆きと怒りで断罪する女性メディアの声そのものとなり、私に押し寄せて来る。
メディアは魔法を使う神話の世界に生きる強く烈しい女性。姿を現した平さんの大きな模様の白い衣装をまとった姿と、朗朗と響くそのお声は、今を生きるメディアとなって観る者を圧倒。
「私をかよわい女、いくじのない女だと、だれに思わせておくものか!」この激しさは平さんの舞台人としての生き方と重なる。
2012年、百を超えるステージで「メディア」を締めくくられた平さんは、メディアのどの言葉に魅せられてメディアを演じ続けられたのだろう。
先日、新聞の、亡くなられた著名人を偲ぶ「惜別」のページに平さんの記事があった。
お元気な時に取材をした様子が書かれていた。400回以上演じた「王女メディア」は忘れがたい役だったと言い、「本筋を外さずトライするのが楽しい。(隣国の太守に救いを求める場面で)今日は色仕掛けで頼んでみよう、明日は命懸け感を強めようとか、毎日変えます。芝居のだいご味です」と。神戸公演の時は、どんな思いで救いを求められたのかしら?今は伺う術もない。でもきっと、今日も雲の上で、平さんは、ワクワクしながら、メディアのあそこは?リア王のあそこは?と策を練っていらっしゃるに違いない。
私も、雲の上に、旅立つ時が来る。その時には、雲の上で、平さんのメディアをもう一度観てみたい。
「感動の舞台『王女メディア』」
泉南演劇鑑賞会
2012年2月例会は、幹の会+リリックプロデュースの「王女メディア」でした。
ギリシャの野外劇場を思わせる舞台。ほの暗い明かりの中に、石橋正次演じる小柄な乳母の、これから起きるであろう恐ろしい出来事を、暗示するかのような長い長い台詞から、幕が開き、「息をするのも気遣いするほど緊張した空間」に「圧倒的な存在感と気品あふれる、美しい」平幹二朗の「王女メディア」登場。
すばらしい衣装に身を包んだその大きな体の「凛とした、立ち居振る舞いや良くとおる声は、長い台詞も淀みなく、朗々と響き渡り」、とても78 歳とは思えない。
夫の許すことの出来ない裏切りに、身悶えし、嘆き悲しむ「王女メディア」。
だが、この激しい気性の女性、このままで終わるはずがない。
夫の新しい妻とその父の殺害をやってのけ、最愛の子ども二人をも殺すことで夫への復讐を遂げる。余りにも残酷な結末である。
女性としての不幸、苦悩、そして葛藤、破滅に至るまで、一気にグイグイと引っ張っていく平幹二朗迫真の演技は、「生命をも賭したと感じられ、魂に火を点けられた気がした。」「これが最後の『メディア』なんて残念」「こんなすごい芝居は初めて。私の一生の宝にしたい。」また、「このお芝居の評判は、初演の頃から聞いてはいましたが、まさかここサラダホールで観られるなんて、夢のようです。」と感想が寄せられる。
ギリシャ悲劇が作られたのは、紀元前の事なのにそのテーマの普遍性には驚かされる。
日本の歌舞伎のように、「男性だけで演じられる『王女メディア』は悪の美が際立ち、ゾクゾクした。」
また、コロス(コーラスの原型)での物語の進行はとてもわかりやすく、子どもを人形で表すことも、人形浄瑠璃を思わせ、違和感なく観られた。
しかし中には、人形そのものに恐怖感を覚えた人もあったようだ。
「いつもは帰るとき『今日のお芝居よかったね』と言うのですが、今日は全員で『凄かった、凄かった』と感動で別れました。」
「芝居で良かった!本当なら怖すぎる!」同感です!
「周回遅れの出会い
−平さんとの思い出−」
いまばり市民劇場
苅田晴仁 (2011年3月入会)
ようやく会える!それが2015年11月14日朝の想い。
その夜、いまばり市民劇場例会の幕が上がった。
生の舞台の平さんは、TVで観ていたのとは全く別物だった。
まずその声!厚みと響きに圧倒される。澱むことのないセリフ。そこからは、2時間後のエンディングまで一気に。
ついに私は、舞台上の平幹二朗に、遭遇した。
イアーソンへの一途の愛ゆえ身勝手な裏切りへ復讐に燃えるメディアの人生の第二幕を、平さんは生きてみせた。
前例会7月からここまで4カ月、チラシを見て、インタビュー記事を読み、ギリシャ神話をひも解き…。本当に待ち通しかったが、報われた。
平さんが、「王女メディアは、自分の中に棲みついて、上演が終わっても去ることがない。」とインタビューの中で語っていた。
そして、あの舞台に出会った私の中にも、彼のメディアはいまも生きている。
あるインタビューの中で、平さん曰く「旅公演では、なかなか寝付けないんだよね。」とのこと。
持てる力をすべて振り絞るような、連日の舞台。
本当に倒れてしまうのではと心配になり、会員仲間のアロマセラピストから眠りと目覚めのアロマオイルを分けてもらい、徳島県の宿に送った。
少しは役に立ったのだろうか?
そんな平さんもいまは、永い眠りへとついた。
生きている間は、ピンと張ったヴァイオリンの名器のように、幾多のドラマを奏で、私たちの心を震わせ続けてきたのだろう。
平さんがそんな名優であることを実感し、再会を願ったのは、彼が急逝するわずか1年前のことだった。
私の観劇人生において今後、ギリシャ人に「ギリシャ悲劇をどう演ずべきかを、日本人に教わった。」と言わしめる平さんのような「怪優」に、再会できるだろうか?
それは、期待すべくもない、私の妄想なのだろう。
周回遅れの私を置いて、平さんはニヤリと笑みを残し、ゴールしてしまった。
「平幹二朗さんを想う」
福岡市民劇場
事務局長 川述文男
あの時はびっくりした。
カーテンコールが終わったので、「お疲れさま!」を言うべく小走りで楽屋へ急いだ。
いつも達成感を漂わせた笑顔で「やぁ・・・」と手を上げるはずだった平さんが、その日は「耳から血がでた」と心配そうな青い顔しているではないか。
ただ事ではない、ともかく「僕の車に、すぐに乗って」と救急病院へ急いだ。
診断の結果は、「綿棒で強くこすり過ぎたのでしょう」ということで大笑い。
診察料を払うため窓口へ行ったら、会計の綺麗な女性がにこにこしながら「昨夜、市民劇場で『王女メディア』見ました、素敵でした」とおっしゃるではないか。
「えっ、ああ、それはどうも・・・」。鳩が豆鉄砲というのは、きっとあの時の平さんの嬉しそうな、はにかんだ、そんな表情を言うのだろう。
こんな思いがけない出会いがあるのも、旅公演ならではの役者冥利といえようか。
いまでもふっと想いだしたりする。
平幹二朗はもちろん俳優座のスター俳優なので、その名前だけは早くから知っていた。
しかし、具体的に意識したのは1969年夏だった。
やけに細かく覚えているのは、杉村春子先生の『欲望という名の電車』の再演例会がその時だったこと。
その最中に不覚にも交通事故で僕は入院していたこと。
そこへ浅利慶太さん(劇団四季)から連絡があった。
「平幹二朗主演で『ハムレット』をやるので西日本労演(中国、四国、九州)の例会で回りたい」。
もちろん、いかに事務局長とはいえ僕ひとりできめる訳にはいかない。
病院の近くの古い日本旅館で西日本幹事会を開き、浅利さんにも出席してもらい説明を聞くことになった。
その頃は第二次安保闘争のころなので、日経連のアカ攻撃がもっぱら文化活動に向けられていた。
もちろん当時の浅利さんの言動や、劇団四季の動向が僕たちの考えとかなり違うのは最初からわかっていたのだ。
お互いに突っ込んで話したつもりだが、結局その時は意見が折り合わず、『ハムレット』例会は保留になってしまった。
それから一年半ほど経ったある日、突然『ハムレット』福岡公演が新聞で発表され、「何だ!」と思っていたらある民放の事業部長が耳元でこうささやいた。
浅利慶太が各会社の労務関係者を集め「労演や労音を潰すためにやるのだから、みんな協力してくれ」と一席ぶっていたよ。
坊主憎けりゃ袈裟までもと言うが、以来、平幹二朗という俳優は、僕らとはすっかり縁の遠い存在になってしまった。
それからまた何百日か何千日が経って年号も新世紀になっていた。
蜷川演出作品で活躍していた平さんも「幹の会」を立ち上げ、ご自身で独自の演劇活動をはじめていた。
その間に僕たちの方も「労演」から「市民劇場」に一皮むけていた。
長い空白のあとの最初の出会いは『リア王』だった。しかし、その昔のわだかまりがどうしても引っかかっていた僕は、やっぱり聞き難いことを聞かずにはいられなかった。
それに対して平さんの答えはこうだった。
俳優になったからには、どうしても『ハムレット』がやりたかった。
しかし、仲代達矢さんがいらっしゃる以上、俳優座では絶対できないことも分かった。
そんな時、浅利さんから誘いがあったので、あっちでやることになった。
「しかし四季の座員にはなりませんでした。魂は売りませんでした」。
芸術家には芸術家なりに僕らにはわからない深い悩みがあったのだ。
でもそれを本人から直接聞くことができたのは、その後の平さんと僕との信頼関係を築くうえで貴重なことだった。
普通のありきたりの人間関係では、言い難いことを言い、聞き難いことを聞くというのはとてもむずかしいことなのだ。
以来、『リア王』、『オセロー』、『冬のライオン』、『王女メディア』とコンスタントに例会に迎え、福岡だけでなく全九州十八団体・四万名の市民劇場会員がどんなに平さんの名演技を堪能したことだろう。
ことに最後の例会になった『王女メディア』への思い入れは強烈だった。
何年も前から会うたびに「やりたい、やりたい」と内容をことこまかに話してくださった。
そのせいかまだ見てもないのに、僕らはすっかり舞台にのめり込んでいたような気がする。
作品への愛情、観客への信頼感、俳優の使命感、それらが一体になったとき、はじめて崇高なまでの執念が生まれてくるのではないか。
事実、2012年に実現した『王女メディア』例会は、俳優・平幹二朗の凄みにまで昇華した演技力に、観る者みんながとりこになってしまった。
屈折した出会いだったが、それだけにまた濃密な演劇人生を共有できたことに心から感謝したい。平さんありがとう。
「平さんの閃き」
北九州市民劇場
事務局長 民谷陽子
初めての平さんの舞台は「ハムレット」である。階段中央に立ち、あの名台詞以外は母親ガードルートと叔父クロディアスの鬘と衣装しか印象にない。
私にとっては、平幹二朗は商業演劇のシンボルでしかなかった。
遠い存在だった。
だから、年月が経って各地市民劇場で上演している様子がちらほら会報などに紹介されるのを見て驚きだった。
そして聞こえてきたのは、九州はNさんがずっと行かれているので、ご自分は行かれないだろうと呟かれているということだった。
そして、九演連で初めて例会が決まり、平さんの最高峰の「王女メディア」誕生まで素晴らしい才能とご一緒できたのは忘れられない思い出になっている。
作品に対する感想はたくさんの方が書かれると思うが、初めて迎えた「リア王」の見事な朗誦術はもちろん、ひび割れた大地を思わせる円形の舞台装置にラスト、天から一筋の水が落ちてきて豊かな大地へと変わっていく、あのブルーの美しさに驚かされた。
千秋楽の佐世保ではちょうどイラク戦争勃発、反戦の思いを込めてろうそくを持たれてのカーテンコールだったと聞いた。
149ステージの舞台の千秋楽に、ご自身は点滴とさすがに声の疲れのある中、そうした演出をされたことに感動したのを思い出す。
そして福岡で九演連事務局長の川述さんと腹を割って話をされたと聞いた。
それは華やかな商業演劇の中にいた平さんが、今、市民劇場という鑑賞会と一緒に例会を作る、その確信に触れる会談だった。
次の「オセロー」では、北九州は大ホールで上演、2階席から舞台を観た。ところが1階から観る景色と全く違って奥行きのある重層的な舞台が展開された。
「リア王」の時もそうだったが、その舞台が一つの絵画のような発想はどこからくるんですか?とお尋ねしたら「オセロー」は飛行機の中で観たある画家の絵だと言われた。
思わず「平さんの閃きですね!」と言ったら、あの笑顔とあの流し目で微笑んでらした。
それから度々、その平さんの閃きに出会った。
それから「冬のライオン」の旅中に川述さんに「王女メディア」をやりたいと打ち明けられた。
私たちは、驚きとこれが実現にできたらという喜びでお話を聞いていたが、最初躊躇されたのは平さん自身だったように思う。
それくらい平さんにとっては代表作品の蜷川演出を離れての試みである。
豪華さも半端ではない。
いいじゃないですか、ギリシャ悲劇に戻ってシンプルにやって・・など話しながら、何回かの話し合いを重ねた。それ位時間をかけた大決心だった。
そしてそれ以前からのお付き合いとなった高瀬久男さんという演出家の存在。
北九州初日、ラストのバイオリンの響きと共に幕が下り、会場から歓喜の声とスタンディングの波が押し寄せてきた。
あの経験は初めてだった。そしてカーテンコールでの至福の瞬間、拍手を全身に感じ、受け止めている平さんがいた。
芝居の思い出だけではない。北九州は8ステージなので製作の秋山さんが気持ちよく過ごしていただくためにかなり気を使われていた。
特に人一倍、平さんは食べること飲むことがお好きだった。
秋山さんとよく下見にも行った。
北九州でお勧めの会員さんのお店を紹介し、全て気に入られて、それも私を信用された理由の一つとお聞きして嬉しいやら恥ずかしいやら。
その平さんが「王女メディア」の時は一滴も飲まず舞台に集中され、台詞の一字一句に入魂の思いで臨んでいらした。
その平さんが岳大さんと共演した「オセロー」の市民劇場との交流会で、大もての息子さんを前に「僕はもう最後で、今度は岳大の舞台を」と言われ、いたずらっ子のようにまたあのにっこりの顔になった時、親子といえどもライバル“小さな焼きもち”をと微笑ましかった。
書けば書くほどに思い出が浮かぶ。
私たちとしては平さんの思いを例会として実現出来たことがなにより嬉しい。
その思いに応えるべく最高の舞台にしていった平幹二朗という天才と同じ年に亡くなった
演出家、高瀬久男。同じ時間を共有できた幸せに感謝である。
別府市民劇場
事務局長 中村佐市
『王女メディア』の例会の時、別府駅に迎えに行くと平さんが100メートル先のホテルまで歩けないという。
そこで、駅まで乗ってきた搬入用の軽トラの助手席に乗ってもらい、ホテルまで送っていった。
だが、舞台では足の悪いそぶりは全く見せず、見違えるような元気な姿を見せてくれた。
役者とは何ともすごい生き物だと思った。
別府市民劇場の会員の皆さんと一緒に